TとかQとかPとか
勤め先は人種的な多様性で言えば確か6~7割が海外組だったと思うが
先日ダイバーシティの一環としてLGBTQの社内イベントがあった。
LGBTTぐらいまでで知識がストップしているので
Qとは何だとぐぐると、増えたのはQだけじゃなかった。
LGBTTQIAXP…
余りにも多いので略してLGBTQ+とか
何というか、これを読んで思い出すのは
何かのアンケートで「そう思う」「ややそう思う」「ややそう思わない」「そう思わない」みたいなもやもやした感じ。
人は良くも悪くも、自分を何かにカテゴライズすると安心し
または否が応でも他者をカテゴライズしないと安心しない性分なのか。
振り返ると、自分が初めて猛烈に違和感を覚えたのは
中学に上がるときに強制された制服だ。
断っておくと、自分はかなりの制服フェチというか
かっちりしているフォーマルな服が好きだし
他人にも制服を着ていると似合うと褒められる。
けれど、その多感な頃にお仕着せられた制服は
どう見ても自分の意思に反したものだった。
まぁそれでも、中学生の自分が忖度して3年間その制服を着たわけですが。
その時の自分の意思に反するというのが
身体的性と性自認が異なるということからくるとなると
「T:身体的性と性自認が一致していないことに対して違和感や嫌悪感を抱いている」
いわゆるトランスジェンダーになるんだろう。
とはいえその頃の自分はそういったことに対し
言葉としての知識としてはあったが、それを自分に当てはめるとか
深く考えをめぐらす等はしていない。
おおよそ他の事₍貧困やいじめなど₎に対処することで
物理的な貧しさ、愛情の欠乏という精神的な貧しさに負けないように
集団の中の出る杭は打たれる、その杭にならないように
日々精いっぱいでまったくもって無頓着だった。
それにそもそも、その頃から現在に至るまで
自分自身の身体的性と性自認が不一致であるという明確な自覚がない。
そうして、そうこうしているうちに
「Q:自身の性自認(自分の性を何と考えるか)や性的指向(どんな性を好きになるか)が定まっていない、もしくは意図的に定めていないセクシュアリティ」
とか
「P:相手の性に関わらずどんな人でも愛することができる人」
のような言葉が生まれていて
最初に挙げたような「ややそう思う」的な
まるで何かにカテゴライズされていないといけないような
というよりも、知らぬ間にカテゴライズされているようなちょっとした閉塞感。
自分が違和感を覚える服は着たくないし
相手にどんな性自認があったとしても
自分が相手のことを尊敬し好きでいられるなら
それでいいじゃんみたいな
自分にとっては至極当たり前なことが、すごく大仰にカテゴライズされて
うわっ人間社会めんどくさ!
もうみんなまとめて猫になれよと思った今日この頃。